築城年代は定かではない。城主は笠原氏とされる。
笠原氏は吾妻鏡に笠原平吾頼直、応永7年(1400年)大塔合戦には笠原中務丞、御符札之古書には笠原美濃の名が残る。
蟻塚城は東の山塊から西へ緩やかに伸びた丘陵に築かれている。
蟻塚城は別名中の城と呼ばれるが、これは東背後にある守屋山城、南にある天神山城の間にあることから付いた名称とも考えられている。実際、蟻塚城は主郭部は詰城的要素を持っているが、下方は広く低い段差の平場が展開しており、館城の要素も持っている。
主郭は御射山神社の東背後の高台にあり、高土塁が巡る曲輪となっている。背後は大堀切でそこから長大な竪堀が伸びている。城域は御射山神社の参道入口からさらに西へ伸びており、一部空堀が残っている。