築城年代は定かではないが仁科氏によって築かれたと云われる。 仁科氏は「岩城仁科系図」では平貞盛の後裔で仁科盛遠の時に仁科名乗ったのが始まりとなっているが、仁科氏の出自については詳らかではなく、古代豪族阿部氏や安曇氏の末裔とも云われる。
仁科氏は当初館之内館に居住していたが、鎌倉時代末期頃に天正寺館に移ったと考えられており、その後、戦国時代まで続いた。
仁科盛遠が鎌倉幕府に無断で後鳥羽上皇に仕え、その処遇が承久の乱(1221年)の一因となった。この乱で盛遠は宮方として越中国礪波山で北条朝時率いる幕府軍と戦い討死した。
応永7年(1400年)大塔合戦では、仁科盛房は守護小笠原長秀に敵対する国人衆方として小笠原氏と戦った。
天文11年(1542年)武田信玄は諏訪へ侵攻し、さらに伊那へ転じてその勢力を拡げていく。しかし天文17年(1548年)村上義清が上田原合戦で武田信玄に大勝すると、仁科氏は小笠原氏や村上氏らと連合を組んで諏訪へ侵攻した。このとき仁科盛能(道外)は下諏訪を仁科の所領とすることを望んだが、小笠原長時はこれを認めず、仁科氏は早々に兵を引き上げてしまった。一翼を失った連合軍は武田氏に敗れ、下諏訪を回復することはできなかった。
天文19年(1550年)小笠原長時が武田信玄によって居城の林城を追われると、仁科盛能は仁科上野介とともに武田氏に出仕した。 仁科盛政は武田氏に従って各地を転戦したが、永禄4年(1561年)上杉氏に通じたとして甲斐へ連行されて殺された。
仁科氏を滅ぼした信玄は五男盛信に仁科の名跡を継がせ、仁科盛信と名乗らせた。 天正10年(1582年)仁科盛信は高遠城主として織田信忠軍と戦い、城を枕に討死した。その後、仁科氏は長子信基と次男信貞の家系が徳川家康に仕え、江戸時代には旗本として存続した。
天正寺仁科氏居館は現在の天正寺一帯に築かれていた。 天正寺の北側の道路に面して土塁と堀跡が残されている。