詳細不明。仁科氏の初期の居館である館之内館の背後のあることなどから、比較的早い時期の仁科氏の詰城とみられている。
木舟城は仁科氏初期の居館と伝えられる館之内館の東背後に聳える標高926.7mの山に築かれている。
日本城郭大系などでは「南城・北城」として紹介されている山城で、鳥屋沢の谷を挟んで南北に位置することから、そう呼ばれているようである。館之内館の案内板に書籍のコピーが貼ってあり「信濃屈指の木舟山城跡」と大々的な見出しで紹介されている。鳥屋沢の谷の位置がわからず、コピーされた縄張図が不鮮明だったので、訪問時にはわからなかったが、gspログで確認すると北城の部分は散策しておらず、南城の部分の散策のみである。
木舟城は標高926.7mの頂部を中心として北西と西に延びる尾根に築かれている。 巨大な山城というのは規模自体そうであるが、曲輪や土塁、空堀など一つ一つのパーツをとっても山城としては規模が大きい。ただ技巧的な縄張ではなく、西側に続く尾根に階段状に設けられた小段など古い時代の築城の特色もある。
鉄塔の東側にある山頂部分が北城と南城との扇の要の位置に辺り、主郭部と思われるが、少し西に降った所にある南城の中心部と比べると規模が小さい。東へ続く尾根に堀切を設けて遮断し、北下に土塁で囲んだ腰曲輪や竪堀がある。
南城の中心的な曲輪群は山頂からやや西の標高880m付近にある。ここは主郭部へ通じる北東背後を二条の堀切で遮断し、弓形になった大きな削平地を並べ、西へ通じる尾根と南西に通じる尾根の要になっている。南西側に通じる尾根は曲輪は先端付近までなく、浅い堀切が所々確認できる程度である。西へ通じる尾根には階段状に削平地が連なり、山神社のある辺りは西尾根の主要曲輪で、東背後に堀切を設け、南に向かって階段状に広い削平地を並べ、東側面には石塁を設けている。
主郭部の近くにある鉄塔から整備用の道が北へ伸びているので、県道55号線から比較的楽な山道が付いていると思われるが、未確認である。
今回は西麓にある常福寺(祈願所)から背後の尾根上までよじ登り、そこから尾根伝いに山頂を目指した。このルートは最初の尾根上までが急峻であるが、そこからは踏み跡も確認でき迷うことなく山頂に行ける。戻りは南西尾根の遺構を確認しながら、山下集落センターの少し南にある尾根先に降りてきたが、こちらも踏み跡はしっかりしている。
最寄り駅(直線距離)