築城年代は定かではないが禰津(祢津)氏によって築かれたと云われる。 禰津氏は滋野氏の庶流で海野氏、望月氏と並んで滋野三家と呼ばれている有力な一族であった。
禰津氏が記録に現れるのは保元元年(1156年)の保元の乱で、源義朝に従う信濃武士の一人として禰津神平(新平)が知られる。治承4年(1180年)木曾義仲が挙兵したときには禰津次郎貞行・禰津三郎信貞、建久元年(1190年)源頼朝上洛の随兵として禰津次郎、承久3年(1221年)の承久の乱では幕府方の武将として禰津三郎、応永7年(1400年)の大塔合戦では禰津遠光などの名が残る。
天文年間(1532年〜1555年)禰津元直のとき武田氏に降り、天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると真田氏の家臣となった。また一族の中で徳川家康に従った禰津政直がおり、この家系は慶長7年(1602年)根津信政が一万石を領して大名に列し上野国豊岡藩となっているが、寛永3年(1626年)信直が嗣子なく没し、わずか三代で断絶となっている。
禰津城は下の城と上の城があり、この下の城が地元では本城と考えられており祢津城山と呼ばれている。 下の城は東部湯の丸saの北方に聳える標高826mの城山に築かれている。現在は公園として整備されており遺構の確認はしやすい。
主郭は山頂にあり南北に長い楕円形で、周囲には土塁が巡り南に虎口を開く。その外側には帯曲輪があり、少し降りた所に外側に土塁の付いた帯曲輪があり、ここも虎口のようである。
主郭の北背後に残る連続堀切とそこから伸びる長大な竪堀がこの城の最大の見所で、東側へ伸びる竪堀は山腹を通る林道まで伸びている。また堀の一つは堀切から横堀へと変化して裾を周り、そこから竪堀へと変化している。
登山道は山麓にある小さな西宮公園からさらに林道を登っていった所にあり、登山道入口に駐車場がある。林道はそのまま城山背後まで通じているが、未舗装で細い道であり利用しない方が良い。 (地図)
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