築城年代は定かではない。読谷村按司(山田按司)は中北山系今帰仁城主の子孫と伝えられる伊波按司の系統で、琉球王国の忠臣とも云われる護佐丸が出生した地である。
1416年尚巴志が北山討伐軍を起こすと先祖の恨みを晴らすために討伐軍に参陣し、北山王国滅亡後は今帰仁グスクで北山監守を務めた。
護佐丸は山田グスクから座喜味グスクへ居城を移したが、座喜味グスクの築城に際しては山田グスクから石を運んで転用したと伝えられており、これによって廃城となった。
山田グスクは北へ伸びた丘陵の先端に築かれており、東は川、西は断崖となっている。また、西下には国頭方西海道が通っている。
山田グスクは国指定史跡で国頭方西海道や護佐丸父祖の墓などが整備されているが、グスクへの道は道標など特になく、グスク内はかなりの藪に覆われている。
山上に登ると平場が拡がっており、小さな段差と曲輪を仕切る石塁などが確認できるのだが、縄張りに特徴がなく藪で地面の凹凸を確認するのが難しいこともあって、図面と現在地がなかなか把握できなかった。石塁はもっと残っていると思っていたのだが、側面を確認してもそれらしいものは見当たらず、日暮れ時間も迫っていたので撤収。
登口は2ヶ所確認した。一つは護佐丸父祖の墓へ登る坂道の途中から上に分岐する細い道があり、分岐してすぐにトラロープで補助ロープになっているので、それに従って登れば山上に行くことができる。
もう一つは山上の拝所のところに行く道で国頭方西海道から分岐しているが、こちらも道標などはない。護佐丸父祖の墓近くから登る道がわからやすいだろう。