天正13年(1585年)豊臣秀次によって築かれた。 近江国四十三万石の領主となった豊臣秀次によって築かれ、城下町は安土より移されて発展、近江商人発祥の地としても知られる。
天正18年(1590年)秀次は尾張国清州へ転封となり、かわって大溝より京極高次が二万八千石で城主となった。しかし永禄4年(1595年)関白豊臣秀次が太閤によって自害させられると、京極高次は大津へ六万石で転封となり、聚楽第とともに八幡山城も廃城となった。
城は八幡山山頂に築かれ、南側の中腹には秀次の館を最上段として麓へ家臣団の屋敷跡が建ちなんでおり、安土城に似た感じである。
山頂部は頂部に本丸、南東尾根に二の丸、西側に西の丸、その南側に南出丸、北側に北の丸を配しており、全ての曲輪は石垣によって築かれている。
現在南東側の山麓からロープウェイがあり、その到着点が二の丸で本丸には秀次の菩提を弔う為に瑞龍寺が建立されている。
現在秀次館と家臣団の屋敷跡は公園化のために工事中となっていた。途中まで行ってみたが、途中から草が生い茂り雨の中傘をさして薮こきをする気にはなれず撤収。公園整備が終った頃にまた訪れよう。
八幡山城の南麓に広がる城下町は、現在でもその面影を色濃く残し、八幡堀一帯は城下町の風情が溢れている。私の場合、城下町を歩く時は小雨が降っているほうがより一掃風情を感じて好きなのだが...何故なんだろう...。