永享2年(1430年)国分氏によって築かれたと云われるが定かではない。 天授年間(1375年〜1381年)に能登国守護畠山氏により西谷内の地頭として国分氏が置かれ、永享2年(1430年)に築城したという。
その後、長綱連の家臣となった国分五郎兵衛(徳山)は、長綱連に従って七尾城に籠り、慶長5年(1600年)前田利長による大聖寺城攻めの際に討死したという。
城は西谷内川の西岸にある南へ伸びた丘陵に築かれている。
北から南へ空堀と土塁で区画された曲輪が確認でき、一部は虎口も確認できる。現在は畑や人工林となっており、「埋蔵文化財」の標柱が建てられているが案内板らしきものは見付からない。
服狭雄神社から少し北へ進むと近年開通した西谷内と河内集落を結ぶ車道がある。この辺りに北の山へ入る道があり、道伝いに進むと空堀や土塁が見える。
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