築城年代は定かではないが南北朝時代に結城祐広によって築かれたと云われる。
源頼朝に従って奥州征伐に参陣した結城朝光は、その功によって白川庄など三郡の所領を得て、自らは下総国結城に在城し代官を派遣して支配した。 康元元年(1256年)頃に朝光の孫結城祐広が白川へ下向し築いたのが白川城とされる。
興国年間(1340年〜1345年)に結城親朝は小峰城を築いて小峰家を興し、嫡子顕朝は白川結城家、二男朝常は小峰家を継いだ。永正7年(1510年)本家白河結城氏と小峰氏は対立し結城政朝は小峰朝脩を自害させる。朝脩の父小峰直常は岩城常隆の援軍を得て政朝を攻め、政朝は逃亡し、白河結城氏の勢力は衰えていく。その後、政朝の子顕頼は直常によって庇護され小峰城へと移り、小峰家は顕頼の子義親が継いで伊賀館へと移った。
城は搦目川の南岸の山塊に築かれている。現在は主郭の直ぐ下まで車で行くことができ、主郭は公園整備されている。
白川城はこの主郭のある山だけではなく、西の標高404.2mの山や東の搦目山にも遺構があるようだが、主郭のある山しか見学していない。
主郭のある御本城山は山頂部に広い曲輪があり、北側に土塁の名残と思われる一段高い土壇が残る。主郭の西下が曲輪IIで虎口状に土塁が残る。
主郭から北へ続く尾根の先端に曲輪IIIがあり、西側に高土塁がついて段曲輪が北から東にかけて残る。
主郭から北東に伸びた尾根の先端、鉄塔のあるところが曲輪IVで、途中には土塁や堀切、西山腹には巨大な横堀があり見どころである。
国道289号線から県道232号線に入って南湖公園入口を過ぎて北上、八竜橋の手前に右へ入る道があり、それを進めば主郭下まで車でいける。
最寄り駅(直線距離)