築城年代は定かではないが南北朝時代に留守氏によって築かれたと云われる。
正平6年・観応2年(1351年)足利尊氏と直義の対立による観応の擾乱が東北にも波及し、奥州管領の吉良貞家と畠山国氏が対立した。尊氏方についた畠山氏・宮城氏・留守氏は岩切城に籠城し、これを直義方の吉良氏・和賀氏・結城氏が攻め落とし、畠山国氏ら百余名が討死あるいは切腹した。
この戦いで勢力を失った留守氏は、その後大崎氏に従って勢力の回復を計り、戦国時代に伊達氏の勢力が拡がると、大崎氏と伊達氏の狭間で留守氏の内部も分裂していく。永禄10年(1567年)には留守顕宗が伊達晴宗の三男政景を養子に迎える。
元亀年間(1570年〜1573年)留守政景は利府城に居城を移し、岩切城は廃城となった。
岩切城は仙台平野を見下ろす標高106mの高森山に築かれている。現在は国指定史跡となり「県民の森」の一部として整備されている。
岩切城は高森山山頂から東西に伸びた尾根と、そこから南北に続く三本の尾根に曲輪を配しており、東西の規模は約500m、南北も約300mと大きな山城である。
主郭部は山頂から南東へ伸びた尾根で、北端の本丸から二の丸、三の丸と南へ続いている。主郭の西は堀切を挟んで曲輪があり、さらに堀切を経て南へ続く尾根に段々と曲輪を並べている。
二の丸から東へ降りていくと土橋の架かる堀切があり、その先に広大な曲輪が拡がる。ここに岩切城の案内板があり、土塁が二箇所に残る。ここから東尾根へ降って行くと、東端の堀切がある。
車であれば県民の森の中を通る道を進んで行くと、岩切城跡の石碑のある公園入口に駐車できる。(地図)
ここはほぼ城内で左上の尾根には曲輪があり、右の谷を挟んだ尾根が主郭部である。
最寄り駅(直線距離)