陸奥 久川城むつ ひさかわじょう

城郭放浪記


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陸奥 久川城の写真
掲載写真数
形態
山城(628m/68m)
別 名
なし
文化財指定
県指定史跡
遺 構
石垣,土塁,郭,堀
城 主
河原田盛次,蒲生郷可,清野長範,蒲生彦太夫
歴 史

天正17年(1589年)河原田盛次によって築かれたと云われる。 河原田氏は藤原北家秀郷流の下野国小山氏の庶流で下野国都賀郡河原田郷発祥とされる。

河原田盛光が源頼朝に従って奥州合戦で戦功を挙げ、その恩賞として伊南を与えられたのが会津河原田氏の始まりとされる。河原田氏は西館東館を平治の居館として築き、南背後の駒寄城を詰城として築いたとされる。

天正17年(1589年)葦名義広は摺上原で伊達政宗と戦ったが敗れ、生家である佐竹氏を頼って常陸へ落ちた。政宗は居城を黒川城へと移して所領拡大を計るなか、河原田氏は伊達氏に対抗するために久川城を築いたと云われる。

伊達氏は新たに帰属した鴫山城主長沼氏などを先陣に久川城に攻め寄せたが、攻め落とすことはできず、天正19年(1591年)伊達氏は惣無事令に反したとして会津領は召し上げられ、奥州仕置きによって蒲生氏郷に与えられた。久川城を守りきった河原田氏ではあったが、奥州仕置きにより所領は没収となり、葦名義広を頼って常陸から出羽国角館へ移るもの、帰農して土着したものなど離散した。現在も出羽国角館の武家屋敷群の中に河原田家の武家屋敷があり、この子孫のものである。

会津に蒲生氏が入封すると蒲生郷可、上杉氏の時代には清野助次郎長範、再び蒲生領となると蒲生彦太夫が入城し、慶長15年(1610年)頃に廃城となった。

説 明

久川城は伊南川の西岸、北へ伸びた半島状の丘陵に築かれている。南西の尾根を除く三方は伊南川に流れる久川と滝倉沢川が流れ、天然の要害となる。

久川城は非常にユニークな中世城館で、西側の滝倉沢川に面した急峻な地形をそのまま生かして大土塁とし、東側を削平して曲輪とする。それぞれの曲輪は西の大土塁から滑り台のような空堀(竪堀)で南北に分断している。

主郭は南北のちょうど中間付近にあり、約100m四方の方形区画で、西を除く三方を土塁と空堀が巡り、東側中央に食い違い虎口を設けている。土塁の北東・南東隅は櫓台なっているが、横矢掛けの張り出しにはなっていない。また、南西隅部が一段高くなっており、ここに稲荷神社が祀られている。

主郭から北は、広大な北曲輪と先端にの北出丸があり、その境に内桝形の虎口がある。主郭から南側に広がる曲輪群と比べ、北曲輪は通路と土壇のような凹凸はあるものの桝形虎口以外は目立った防御施設がなく不自然な状態となっている。

主郭から南へは主郭と同じく西の大土塁から斜面に伸びた空堀で区画された曲輪が、二ノ丸・三ノ丸・南曲輪と続く。こちらは北の曲輪群と異なり、東西に伸びた空堀で区画され、東端部にある「武士の道」と書かれた武者走りより一段高い位置に曲輪が形成されているが、南へ行くに従い削平状態が悪くなる。

南端の虎口から入ると南曲輪の下へと出るが、そこから「武士の道」と呼ばれる通路が三ノ丸・二ノ丸の東下を主郭方面に延びている。途中一箇所桝形のような土塁囲みの小郭が付いていて、現状二箇所囲みが切れ車が通っている。この部分を突破されると、三ノ丸・二ノ丸から横矢が常に掛かる状態とはいえ、主郭まで一気に到達してしまう構造は少し考えがたい。

この城のもう一つの特徴が山麓に残る虎口で、南の虎口から降りた先には7m前後の方形の桝形があり、外側に堀が巡らされ馬出になっている。北の虎口から降りた先も桝形があったといわれるが、こちらは現在残されていない。

案 内

登山口は三箇所あり、北の搦手、南の大手、そして南の尾根上からでそれぞれ駐車スペースがある。南の尾根上から入ればそれほど登らずに散策することができそうだが、それほど高い山でもないので、搦手から登り大手へ降りるルート(または逆)で散策するのが良いだろう。

所在地/地図
福島県南会津郡南会津町青柳字小丈山
付近の城(直線距離)
1.1km 陸奥 西館(伊南村)
1.2km 陸奥 東館
1.8km 陸奥 駒寄城
最終訪問日
2012年5月
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