建久元年(1190年)河原田近江守盛光によって築かれたと云われる。 河原田氏は藤原北家秀郷流の下野国小山氏の庶流で下野国都賀郡河原田郷発祥とされる。
河原田盛光が源頼朝に従って奥州合戦で戦功を挙げ、その恩賞として伊南を与えられたのが会津河原田氏の始まりとされる。河原田氏は西館・東館を平治の居館として築き、南背後の駒寄城を詰城として築いたとされる。
天正17年(1589年)伊達政宗に対抗するために久川城を築いて居城を移し、伊達氏からの攻撃を防いだが奥州仕置きにより河原田氏は滅亡した。
駒寄城は伊南南中学校の南側にある丘陵に築かれている。 「福島県の中世城館跡」に掲載されている図面を見ながら散策して満足していたのだが、実はこの駒寄城は北麓近くの標高620m前後の部分と、南の山頂から北西に派生した尾根部分の二箇所に遺構が残っている。この山頂部分は残念ながら見落としており、また機会があれば訪れてみたい。
北の山麓にある遺構は最高所に祠が祀られ、その背後に浅い堀切をもって遮断している。この付近の削平具合はそれほど良い状態ではないのだが、北側に空堀があり地形に沿った高低差のある横堀になっている。西側に少し下った所にも空堀があり、南の山側との間は沢が流れている。
この主郭部から北へ降りた麓近くには段々に造成された屋敷跡のような平段が幾重にも重なり、土塁状の高まりや石積などが残っている。この部分は一時期水田となっていたという。林道からの入口部分は西側に土塁のような地形となり、虎口であったかもしれない。
伊南中学校の南側の道路沿いに案内板がある。入口は谷沿いに入って行く林道のすぐ先にある。