築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ南会津に所領を得たものとされる。当初は長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年〜1428年)頃に鴫山城を本拠として移ったと見られている。
長禄3年(1459年)山中越中は白河結城勢を密かに導き、長沼氏を鴫山城より追だしたが、長沼氏は葦名氏の力を借りて鴫山城を取り戻したという。
天正17年(1589年)葦名氏が伊達政宗によって滅ぼされると伊達氏に帰属し、先陣として伊達氏に服属しない山内氏や河原田氏を攻めた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置き伊達氏が会津から取り除かれると、長沼氏は伊達氏に従って退去した。
その後は会津に入封した蒲生氏郷の家臣小倉作左衛門、ついで上杉氏の家臣大国実頼が城代となり、この頃に大門付近の改修が行われた。再び蒲生氏が会津に入封した時には蒲生主計・蒲生内記が在城したが、寛政4年(1627年)加藤嘉明が会津に入封した後、元和の一国一城令により廃城となった。
城は阿賀川の南に聳える標高749mの愛宕山に築かれている。
詰城は愛宕神社が祀られた山頂に主郭があり、御茶屋場、主水曲輪といった名称の曲輪が残る。主水曲輪には野面積の石垣がある。御茶屋場の先端から麓にかけて東外壁塁と呼ばれる尾根上の土塁とその外側の堀が八幡神社まで伸びる。西側にも尾根上に土塁が設けられ、山麓の根古屋を覆うように外壁が設けられている。
北側の山麓に設けられた根古屋部分は長沼氏の後に入部した蒲生氏・上杉氏によって大きく改修されたものとされ、石積の大門跡が復元されている。
愛宕神社への登山道はいくつかあるようです。山麓部の大門へは南会津役場から集落内の道を西へ進み田島カトリック暁の星幼稚園を目指します。東尾根の八幡神社経由の登山道は南会津役場の西の通りを南へ進んで行くと右側に案内板があります。
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