築城年代は定かではないが三田氏によって築かれたと云われる。 三田氏は平将門の末裔を称するが、壬生氏の一族ともいわれ出自は詳らかできない。
三田氏は関東管領山内上杉氏の被官として仕えおり、永正6年(1509)年連歌師の宗長が勝沼を訪れたときの城主は三田弾正忠氏宗で嫡男は政定あった。
大永年間(1521年〜1528年)に山内上杉氏の勢力が衰退し、小田原北条氏の勢力が伸びてくると三田政定は北条氏に従っている。しかし、永禄4年(1561年)上杉政虎(謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ越山してくると、三田弾正少弼綱秀もそれに応じて上杉氏に従い各地を転戦した。
上杉氏が越後へ引き上げた後も三田氏は北条氏と敵対し続けた。永禄4年(1561年)〜永禄6(1563年)年三田氏は勝沼城から辛垣城へ拠点を移していたが、北条氏照に辛垣城を攻め落とされ三田氏の嫡流は滅亡した。
三田氏の後は北条氏照の属城となり、三田氏の旧臣で三田氏一族と伝える師岡山城守将影が城主となった。
勝沼城は東青梅駅の北東、霞川に向かって南へ伸びた丘陵の頂部に築かれている。 現在は勝沼城跡歴史環境保全地域に指定されており、遊歩道が整備されている。
勝沼城は大きく三つの曲輪から成り、光明寺の北側にある中央の曲輪が主郭で、東側に二郭、北西側に三郭がある。外側にはほぼ横堀が巡らされており、二郭が墓地になっているものの残存具合は良好である。
南麓にある光明寺か妙光院の墓地脇からアクセスするのがわかりやすい。
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