築城年代は定かではないが、閑国(しずくに)大夫重実によって築かれた鶴鳴城がその前身と云われる。閑国越中入道俊定のとき、垪和八郎為長によって攻められ落城し、垪和為長(芳賀、羽賀とも)が改修して鶴田城となったと云われるが定かではない。
垪和氏は浦上氏や尼子氏に従い、その後は三村氏を通じて毛利氏に従った。 垪和為長が討死したのちは、嫡子竹内善十郎為能が幼かったため、弟の杉山備中守為就が鶴田城主となり、竹内為能はやがて高城を築いて居城とした。この杉山為就の子、竹内久盛が現在も続く竹内流古武道の開祖にあたる。
浦上氏が滅亡して宇喜多氏が台頭すると、毛利氏と宇喜多氏は和睦して手を結んだが、織田信長の中国侵攻によって宇喜多氏は毛利氏を離反し織田信長と結んだ。 天正8年(1580年)宇喜多氏は垪和へ侵攻し鶴田城と高城を囲んだ。竹内氏は毛利氏に援軍を求め一度は宇喜多氏を撃退したが、陣替えの隙を突いて再度侵攻してきた宇喜多氏に攻められ、高城二ノ丸の守将岸氏勝が宇喜多氏に寝返ったこともあって落城、竹内氏は滅亡し帰農した。
鶴田城は旭川に支流が合流する地点の北方に聳える標高263mの城山山頂に築かれている。
山頂部は南端を最高所として北東と西へ緩やかに尾根が伸びており、その方向に向かって平段が続いている。この城は石積みが至る所に残っているが、部分的な残存である。平段は概ね1m未満の低い段差で、東側は外側に幅2m程の通路が通っている。
山頂から西へ伸びる尾根は竹やぶになっているが、この中に江戸時代に建立された城主の芳賀八郎為永と杉山備中守為就を祀った石碑が建っている。
現在登山道が付いている北方の尾根に二条の堀切が設けられ、外側には土橋が架かる。道はそのまま北端の曲輪の西斜面を通り、主郭と西曲輪の間に出てくるが、途中には一条の竪堀とそれを守る腰曲輪、さらに北西斜面に畝状竪堀群があり、不明瞭ながら八条程の竪堀が確認できる。
城山の南麓で県道30号線と県道70号線に分かれるが、県道30号線で川沿いに西へ行くと直ぐに大蔵・若林集落へと登る道がある。これを使って城山の北西側に登った所に登山口があり、その近くの路側帯に駐車できる。(地図
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