築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に竹内善十郎為能によって築かれたと云われる。 竹内為能は鶴田城主垪和為長の嫡子であったが、為長が討死したとき幼小であったため鶴田城主には為長の弟の杉山為就が継いだ。その後、為能が自身の居城として築いたのが高城と云われる。
天正8年(1580年)宇喜多氏は垪和へ侵攻し鶴田城と高城を囲んだ。竹内氏は毛利氏に援軍を求め一度は宇喜多氏を撃退したが、陣替えの隙を突いて再度侵攻してきた宇喜多氏に攻められ、高城二ノ丸の守将岸氏勝が宇喜多氏に寝返ったこともあって落城、竹内氏は滅亡し帰農した。
鶴田城主の杉山為就の子、竹内久盛は現在も続く竹内流古武道の開祖にあたり、その発祥の地が県指定史跡となっている。
高城は鶴田城から谷を隔てて北にある標高336.9mの高城山山頂に築かれている。高城は山頂にある主郭部と南東へ伸びた標高250m付近にある出丸から成る。
主郭は山頂にあって南北に長く北端に土塁がついており、中央には「高城」の石碑が建っている。南下から東下にかけて横堀状になり、側面には石積跡がある。北から北東にかけて腰曲輪が付き、外側に土塁が付いている。
北方に伸びる尾根には三条の堀切で遮断し、西側には竪堀も付いている。東へ伸びる尾根には西を除く三方を土塁が巡る曲輪があり、その先に馬蹄形の段が付いて、さらに東に小段が付いている。この辺りに井戸跡のような穴が2つある。
主郭から南へ伸びる尾根には馬蹄形の段が続き、通路が段の東、西と中を通りながら降りている。その先は自然の尾根になるが、標高250m付近まで降りると出丸がある。
出丸は標高260mから250m付近にあり、北側を堀切で遮断する。堀切に面した部分は櫓台状の高まりであるが、削平されておらず自然地形になっている。そこから凹んだ削平地を経て出丸の中心の曲輪となり、南東側に二段の小段が付いている。
高城山から尾根続きの北方の山上には集落があり、そこから続く林道が高城山のすぐ近くまで付いている。未舗装の林道はわりとしっかりとした道ではあるが、終点に駐車場はない。幸い舗装路から未舗装に変わる辺りに広い空き地があった。
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