文亀2年(1502年)鱸(鈴木)藤五郎親信によって築かれたと云われる。 鱸氏(鈴木氏)は市場古城を居城として代々続いていたが、親信の時代に新城として市場城を築き居城を移したと伝えられる。
親信のあと、鱸肥後守長重、鱸伊賀守直重、鱸越中守重愛(長康)と続いた。天正11年(1583年)重愛は徳川家康に従って串原・広瀬の城を攻めて功を挙げ、領の加増を受けて城を改修した。重愛は自身の武威を誇り、豊臣秀吉(あるいは徳川家康)に従わず文禄元年(1592年)小原を退去させられ、城は破却されたと云われる。
市場城は本城小学校の北西の標高390mの山に築かれている。現在は城址公園としてきれいに整備され遊歩道が設置されている。基本的にこの遊歩道を歩けば城内の遺構の大半を見ることができるので、初心者でも安心して見ることができる。
「諸国古城之図」に掲載されている「三河市場城図」では主郭を中心とした大半は石垣造りで、主郭内部は食い違い虎口によって副郭になっている。しかし、現状では石垣は主郭から南側にかけてと、主郭の西側に一部現存するのみとなり、主郭は南北に長い曲輪になっている。
主郭の西下には桝形門の石積があり、その北側に畝状竪堀群が残る。この畝状竪堀群は竪堀の起点であるコブの部分が遊歩道によって失われているのだが、「愛知県中世城館跡調査報告」によれば、公園化する以前からこの部分は喪われており、石垣造りの城に改修した際に畝状竪堀の起点部分を削いで道を付けたと考えられている。 この虎口から南側に入ると「さんざ畑」と呼ばれる曲輪群があり、家老の尾形三左衛門の屋敷跡と伝えられている。
国道419号線から県道354号線ではなく、一本南の本城小学校に至る道に遊歩道の入口と駐車場がある。国道側の入口は小原町前田交差点の一本東で「泥ぶち観音」のある交差点である。