元弘3年(1333年)北条高時が鎌倉で滅ぼされたとき、その弟で僧の慧性と荒間朝春がこの地へ逃れてきて築城したのが始まりとされる。
応永年間(1394年〜1428年)には多々良四郎忠到の居城であった。
天正年間(1573年〜1592年)には館林城主赤井氏の重臣小曾根政義が城主であった。
鶉小城は多々良沼に半島状に突き出した『荒間崎』と呼ばれる地に築かれていた。 現在は町指定史跡となっており、多々良沼公園の一部として整備されている。
多々良沼公園の駐車場に面して南北に土塁と空堀が残っており、南側に案内板と標柱が建っているが、遺構と思えるのはこの部分くらいである。半島の先端にある浮島弁財天は鎌倉北条家再興を願って建立したものである。