築城年代は定かではない。
延徳元年(1489年)木部新九郎は全透院の前身となる地蔵尊を祀っており、この頃には三ノ倉城が築かれていた。
木部氏の後は大戸の浦野氏の所領となる。武田氏が滅亡すると、北条氏の家臣小笠原播磨守が在城したが、豊臣秀吉による小田原征伐によって徳川家康が関東へ転封となると、三河国大沼より松平近正が五千石を領して三ノ倉城主となった。
慶長5年(1600年)関が原合戦で、松平近正は伏見城に籠城し西軍の攻撃を受けて落城、鳥居元忠とともに討死する。家督を継いだ嫡男の松平一生は、戦後この功によって一万石に加増され下野国板橋へ転封となり廃城となった。
三ノ倉城は全透院の背後に聳える南西に伸びた尾根の先端頂部に築かれている。
主郭は土塁が巡る長い曲輪で南に虎口があり、一段下の帯曲輪に通じる。東尾根には堀切があり、その奥には鉄塔があるが、その先にも一条堀切がある。
全透院の南に民家があるが、その民家の裏側から山上にある鉄塔へ整備道が付いている。