築城年代は定かではないが鎌倉時代頃に有馬氏によって築かれたと云われる。 有馬氏は熊野別当家の出といい、榎本氏がこの地に来て産田神社の神官となり有馬氏を名乗ったと云う。
南北朝時代には当初南朝方であったが、後に北朝方に転じ永徳2年(1382年)北山合戦で兄弟三人とも討死したという。
応永年間(1394年〜1428年)頃の有馬和泉守忠永の頃には東は九鬼・行野、西は阿田和までを領した。その子有馬和泉守忠親に嫡子なく、甥の河内守忠吉を養子として跡を継がせ忠親は鬼ヶ城に隠居したが、後に実子が生まれ忠親は忠吉を自刃させた。このことが親族の怒りを招き北山郷の者と協議して忠親の鬼ヶ城を攻め、忠親は防ぐことができず自刃した。その後、忠親の実子孫三郎が家督を継いだが、孫三郎に子がなく、新宮の堀内出羽守氏重の二男楠若を養子に迎え忠勝と名乗った。しかし、天正2年(1574年)堀内父子が病没したため、忠勝は堀内家の家督も継ぎ、名を堀内安房守氏善と名乗った。
有馬本城は文安元年(1444年)有馬和泉守忠親が開山した安徳寺の南にあった。
現在は田畑や宅地となっていて明瞭な遺構は残っていないが、北を除く三方に一段低くなった畑があり、堀端などの地名が残っている。