築城年代は定かではないが鎌倉時代に逸見清光によって築かれたと云われる。 清光は常陸国から大治5年(1130年)甲斐国巨摩郡市河荘に配流となり、逸見(へみ)に住んで逸見氏を名乗った。後に甲斐源氏武田氏となる系統はこの清光の次男で武田信義館に住んだ信清の系統である。
天正10年(1582年)武田勝頼が天目山で自刃して武田氏が滅亡すると、織田氏の勢力下となったが、織田信長が本能寺の変に倒れたことにより、徳川氏と北条氏が甲斐に侵攻して草苅り場となる。この天正壬午の乱で谷戸城は北条氏方の城となり、この北条氏によって城が改修されたとされる。
谷戸城は小高い丘陵を利用した城で、現在は国指定史跡となり公園整備されている。
土塁囲みの主郭を二郭と三郭が取り囲む構造でこれらが主郭部となる。いずれも高土塁が復元されているが、異質なのはこの土塁の内側に大きな溝が切られていることである。一般的に堀は土塁の外側に設けるものだが、溝は内側にある。土塁で囲まれた曲輪の場合、水捌けが悪いと水が溜まることから淵に溝を切って排水することがあるが、それにしては規模が大きく謎である。
主郭部の外側に設けられた四郭、五郭といった辺りは緩斜面で外側に低い土塁を設ける。また麓近くにも横堀があり、山全体が城郭であった。
ふるさと歴史公園で資料館があり谷戸城の模型なども展示されている。この資料館の駐車場や付近にも無料の駐車場がある。
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