築城年代は定かではないが武田信義によって築かれた。 信義は常陸国から大治5年(1130年)甲斐国巨摩郡市河荘に配流となった武田清光の次男である。
平治の乱で敗れた源義朝の子頼朝は伊豆へ流されたが、治承4年(1180年)平家打倒の兵を挙げた。この時、頼朝は信義に加勢を依頼し、それに応えた信義は駿河国に侵攻して功をあげ駿河国守護に任ぜられた。
しかし、武田氏の勢力が増すことを恐れた頼朝は、元暦元年(1184年)駿河国守護を解任し、信義の長男忠頼を謀殺した。
現在は開墾され田畑と住宅地となっており、わずかに石碑と案内板が建てられているだけとなったが、武田信義の墓が願成寺に残されている。