詳細不明。「甲斐国志」によれば城主は堀内下総守とされ、元亀・天正年間(1570年〜1572年)頃の武田家臣とされ、その子主税助の時に落城したという。
県指定史跡であるが、標柱もなければ案内板もない。あるのは道路脇から城内に入るために架けられた橋だけ。
城は北西から南東方向に曲輪が連なり、現在は二郭が確認できるが、「中世城郭事典」によれば、南東側の曲輪には本来土塁があり、二郭に別れていたとのことである。周囲は細い用水路となり堀跡のようである。
北西側の曲輪は周囲の土塁が完存しており、中央部が凹んで南東の曲輪との虎口のようである。南東側の曲輪は南東面だけ土塁がなく、堀跡とされる用水路を挟んで民家が建っている。