ルビは「すだれじょう」とも読む。築城年代は定かではない。尼子氏の家老亀井武蔵守安綱の居城と伝える。永禄9年(1566年)その子亀井能登守秀綱のとき、毛利の武将伯耆国尾高城主の杉原盛重におびき出されて謀殺され、鈴垂城も奇襲を受けて落城したという。
永禄12年(1569年)尼子勝久を旗頭とする尼子再興軍は忠山城から真山城への拠点を移し、富田城奪還を試みるも達せず、翌永禄13年(1570年)布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北した。尼子勝久は真山城から鈴垂城へ移り、しばらく滞在した後に桂島から出雲を脱し京へ上ったという。
鈴垂城は境水道に突き出すように南へ張り出した丘陵に築かれている。 東麓の航空自衛隊高尾山分屯基地、西麓の前畑産業森山工場に挟まれた丘陵である。
道はないので西側よりよじ登ってみたが、山上は薮化しておりイバラの群生と相まって歩くのがつらく埒があかないので遺構の散策は諦めた。「島根県中近世城館分布調査報告書」に掲載されている縄張図によれば、南北に長い主郭は北端に櫓台を置き、南に二段の腰曲輪を持つ。北尾根は堀切で遮断している。