築城年代は定かではない。天文11年(1542年)大内義隆が出雲の尼子氏を攻めた頃には多賀山通定が城主であった。多賀山氏は備後国甲山城主山内首藤氏の一族で蔀山城主の多賀山氏の一族である。
多賀山通定は一度は大内氏に従って尼子を攻めた出雲の国人領主が再び尼子方へ寝返ったのにたいして、一貫して大内方にとどまっていた。
毛利氏が出雲に侵攻してきた頃には一時、毛利元就の嫡男隆元が在城していたという。
日倉城は三刀屋川に面した標高376mの山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあって平坦で標柱が建っている。ここから北へ続く尾根伝いに曲輪を設けているが、全体的に加工度は低く、狭い尾根を削平して段を重ねているだけである。
宗円寺に向かって登って行くと城山公園の道標が出ている。それを登って行くと専正寺のほうに登って行くが、最後を山側に登った所に登山口があり案内板が建っている。ここに広い駐車場がある。