築城年代は定かではないが、元亀元年(1570年)尼子再興軍と毛利方の天下分け目の合戦(布部合戦)の舞台となったことで有名である。
元亀元年(1570年)尼子勝久を旗頭とする尼子再興軍は富田城を奪還するべくこれを包囲した。対して毛利氏は富田城に籠もる天野隆重を救援すべく、毛利輝元を大将として吉川元春・小早川隆景の軍勢が派遣された。
尼子方は布部城に森脇市正久仍が陣取り、山中鹿之介、立原久綱なども集結して毛利勢と戦ったが敗れ、富田城奪還は成らず、大将尼子勝久のいる末次城目指して退いた。(布部合戦)
布部城は飯梨川西岸にあり、布部小学校の北側にある川に面した標高183mの要害山に築かれている。
北東端にある山頂に主郭を置いて南西に続く尾根を堀切で断ち、そこから南、南西の二俣に分かれた尾根とその間の谷に削平地を連ねている。
布部小学校の北側にある山で、山上に上がる道は布部小学校の東下の集落内を南北にはしる道沿いに「要害山→」と記された道標が出ている。もう一つわかりやすいのは、小学校の西側にある布辨神社の境内の東側から道が付いている。