築城年代は定かではないが土居氏によって築かれた。 土居氏は紀伊国牟婁郡土居の鈴木党発祥と称しているが定かではない。 土居氏は西園寺十五将の一人に数えられる。
戦国時代の当主土居伊豆守清宗は天文15年(1546年)石城に籠って豊後の大友氏からの侵攻を防いだ。しかし、永禄3年(1560年)に再度大友氏の来攻を受け石城は落城して土居清宗・長子清定父子は自刃して果てた。
永禄5年(1562年)土佐国一条氏に人質となっていた土居式部大輔清良が大森城主としてこの地に戻った。清良は天正7年(1579年)長宗我部氏によって落城した岡本城の奪還に成功している。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による長宗我部攻めののち、伊予は小早川隆景に与えられたが、このときはそのまま在城を許された。しかし、小早川氏が筑前に転封となり、替わって戸田勝隆が宇和島に入部すると、清良は下城を命ぜられ、そのまま廃城となった。
大森城は三間町元宗にある標高315.9mの山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。南峰には松峰城、南東の尾根先には天神(森)城があり、山全体が城になっている。
主郭は山頂にあり東西に長く東端に明瞭な土塁があるが、縁はところどころ高まりがあり、土塁あるいは土塀などが設けられていたのかもしれない。ほぼ中央に東西に分割するような土塁の残欠があり、東西に区画されていた可能性もある。
主郭から東へ伸びた尾根には曲輪群II、曲輪群IIIと四段の曲輪が続く。削平もしっかりして切岸も高くII1には城内でもっとも高い石積が残されている。
曲輪群IIから北へ伸びた尾根には曲輪群Vがある。曲輪V1の東端土塁には石積があり、下方のV2は北側面に石積がある。
曲輪V2の北尾根は堀切8で遮断する。堀切8は西側に竪堀が長く谷下まで伸びるが、東側は竪堀が伸びず、切岸下に帯曲輪状の緩斜面地形が伸びる。北東尾根を遮断する堀切5も同じように南側は堀として伸びず曲輪IIIの北下は帯曲輪状の緩斜面が続く。北尾根と東尾根が交差する部分は横堀7が伸びており、北の堀切8から東の堀切5まで横堀状に続いていた可能性もある。
主郭から西へ伸びる尾根は曲輪群IVがあり、大きく四段になり南端が土塁スロープ状になって現在の登山ルートになっている。この曲輪部分にも一部石列がある。西尾根先端には堀切は見当たらないが、かなり降った所に堀切1がある。
主郭から北西に伸びる尾根にも曲輪があり、山腹にある曲輪VIは石積を伴う。下方の曲輪群VIIは尾根の斜面を削平して曲輪VII3、VII2となり、先端が一段小高い曲輪VII1となる。北尾根は埋もれているが堀切11、南側は土塁の下が竪堀状の溝になっている。
主郭から南西に伸びる尾根は堀切3ののちに超規模な削平段が続き、先端に曲輪VIIIがある。他の曲輪群と比べると一面として削平しておらず、最高所は南北に土塁状地形を残し、周囲を小規模に段造成している。
主郭から南東に伸びる尾根は松峰城に続くが、この尾根にも堀切4がある。松峰城に近い鞍部にも堀切があり、形状を見ると大森城側を守るための堀切の可能性もある。
登山道は南西麓にある。川を渡って正面右の道を上り詰めると民家で終点となるが、その先の果樹園のところに案内板がある。その奥が登口でそこから尾根伝いに登って行く。
松峰城に縦走は可能だが道が整備されていない。
最寄り駅(直線距離)