築城年代は定かではない。 戦国時代の城主は三間の中野殿と呼ばれた河野通賢で、高森城と岡本城の城主であった。
戦国時代には土佐一条兼定が度々侵攻し元亀元年(1570年)には人質を出して一条氏に降伏する。しかし西園寺公広によって人質が奪還され、河野氏は以後西園寺十五将の一人として西園寺氏に従った。
天正9年(1581年)(天正7年説もある)長宗我部氏は久武親信に佐竹太郎兵衛・山田外記をもって三間に侵攻、岡本城代河野兼通は長宗我部氏に気脈を通じていたため程なく落城、土佐勢は岡本城に入城した。 高森城に籠もっていた河野通賢は、大森城主土居清良とともに岡本城に押し寄せ、西園寺氏の援軍も加勢して取り戻した(岡本合戦)。
岡本城は二名駅の南東にある比高80mほどの山に築かれている。
大規模な山城で、曲輪群I、曲輪群II、曲輪群IIIで構成されている。山全体が開墾されていたようで明らかに畑跡である石積みされた段などが見られるが、曲輪の形状は比較的良好である。
主郭はI1で南端に高土塁を設け、西背後に岩盤を砕いた多重堀切7、南側面は畝状竪堀群8を備える。I1からI6までは比較的広い曲輪が拡がり、北尾根にはI7からI10まで西の谷筋に土塁を備えた曲輪群が続く。土塁には石積みが施されており、このあたりは城郭にともなう石積みと思われる。
I10の北下には堀切2があるが、この堀切は通路として利用されており西の帯曲輪群から曲輪I10に入る城道がつながる。横堀5の両端には竪堀3、4があり、竪堀1、3との間は帯曲輪群となっているが、竪堀3は畑跡のような段加工があるので、帯曲輪群も後世の改変の可能性もある。
現在の鉄塔整備道が続く東尾根側にも堀切+竪堀14、堀切15が確認できるが、堀切14、竪堀14は山道の可能性もある。
曲輪群IIは主郭から南西に伸びた尾根のピークにある。曲輪II1は南北に長く南端にわずかに土塁が残る。西下には堀切だったと思われるが北に長く伸びた二重竪堀9があり、その先にも浅い堀切10が確認できる。一方南下は竪堀と浅い堀切11になっている。
曲輪群IIの東下に曲輪群IIIがある。III1は中央西よりに仕切土塁があり、南端にも小規模な土塁が残る。南下は現状堀切にならず、竪堀地形が点在する。
曲輪III2は西端に土塁を備えた腰曲輪で土塁の外側にも堀状地形がある。現在土塁を貫通する作業道が設けられており、虎口であったかどうかは不明である。
東の谷筋に土居垣内集落がある。この集落の一番奥にある農作業小屋の奥から谷筋に入る山道があり、右上に登って行くと鉄塔のある曲輪I4に繋がる。
車は土手沿いを東へ進むと土居垣内集会所があり、その脇に駐車可能である。
最寄り駅(直線距離)