築城年代は定かではない。 戦国時代の城主は三間の中野殿と呼ばれた河野通賢で、高森城と岡本城の城主であった。
戦国時代には土佐一条兼定が度々侵攻し元亀元年(1570年)には人質を出して一条氏に降伏する。 しかし西園寺公広によって人質が奪還され、河野氏は以後西園寺十五将の一人として西園寺氏に従った。
天正7年(1579年)長宗我部氏は久武親信に佐竹太郎兵衛・山田外記をもって三間に侵攻、岡本城代河野兼通は長宗我部氏に気脈を通じていたため程なく落城、土佐勢は岡本城に入城した。 高森城に籠もっていた河野通賢は、大森城主土居清良とともに岡本城に押し寄せ、西園寺氏の援軍も加勢して取り戻した。
城は標高225mの山頂部にあり、西に続く尾根を堀切で断ち切っている。この尾根の先にある頂部も城域らしく、削平され土塁が残っていた。堀切のすぐ西側の曲輪が主郭で東隅には櫓台と土塁が残る。
「中世城郭事典」の縄張図では三重堀切となっているが、見た感じでは一条の堀切しか確認できなかった。その付近にある畝状竪堀群は確認できた。
主郭に進入するべく北側に回り込んで櫓台から主郭に進入した所、後ろで何やらイヤな音が聞こえ、振り返ると木の根っ子の辺りでスズメ蜂らしきものがウヨウヨ。急ぎ退散して事なきを得た。
城山の東の谷に民家が建ち並んでいるが、その一番奥の家(工場のような施設がある)の奥に鉄塔保守用の登山道がある。
最寄り駅(直線距離)