築城年代は定かではないが毛利氏によって築かれたと云われる。 毛利氏は大江広元を祖とする一族で、毛利元就で著名な安芸毛利氏とは同族である。 私部城の毛利氏は鎌倉時代頃に入部し地頭として在地した。
文明11年(1479年)毛利次郎貞元は因幡国守護山名豊時に対して反乱軍を起こし、細川氏や赤松氏と結んで山名氏と戦った。激戦となったが、翌年には但馬国守護山名政豊によって鎮圧された。長享2年(1488年)貞元は山名政実を擁して再び挙兵したが、前守護の山名豊時によって私部城は包囲され落城した。貞元は自刃して果て、山名政実は矢部館へ逃れて自刃した。これを「毛利次郎の乱」という。
天正9年(1581年)毛利豊元は安芸毛利氏に味方して鳥取城に籠城し、羽柴秀吉と戦ったが、吉川経家の自刃により開城、毛利豊元は但馬へ逃れたといわれる。
私部城は市場集落の南方の山頂に築かれている。 私部城は標高270m付近の南北に伸びた山頂に主郭を置き、背後の尾根に三条の堀切を設けて遮断する。ここから北西側の山全体に削平地を築き要塞化してあるが、切岸による防御が中心となっていたようで、土塁や堀切はあまり用いられていない。
市場集落から登山道が山頂まで続いており、入口の前にある案内板には壮大な縄張図とともに解説がなされている。登山道は「カエル岩」を経て山頂の主郭に至る。 支尾根はそれほど広くない馬蹄形の曲輪が階段状に連なっているが、本丸が北西方向に伸びる尾根の曲輪は広く切岸も高くなっている。
城山から県道に沿って東へ進むと大樹寺のある福地集落に至るが、ここに毛利豊元の墓と伝えられる宝篋印塔が一基残っている。
市場集落にある市場神社から西へ歩いて行くと登山口の道標が出ている。道路の反対側に壮大な縄張図入りの案内板が設置されている。
毛利豊元の墓は福地集落の東の外れにあり、県道沿いにある「やまめ」の養殖の看板が目印で、ここから北へ100m程入った所の道路の奥にわずかに宝篋印塔が見えている。(地図)
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