築城年代は定かではない。 永禄11年(1568年)尼子氏の遺臣山中鹿之介は、尼子国久の孫勝久を奉じて尼子再興軍を起こした。出雲に蜂起した再興軍は伯耆にもその勢力を拡げる。しかし、元亀元年(1570年)に毛利氏の反撃を受け、元亀2年(1571年)布部合戦で大敗し、大山寺経悟院の支援で末吉城に籠もっていた山中鹿之介もまた毛利軍に敗れて捕らわれた。鹿之介が厠から脱走し京へ逃れたたのはこの時のことである。
末吉城は現在の末吉集落一帯に築かれていたという。 「鳥取県中世城館分布調査報告書」によれば、現在も集落内には土塁、堀、礎石が残されているという。集落内を歩いてみたが、これといった遺構はわからなかった。
国道9号線大山入口交差点の所に、毛利軍の使者として城内につかわされ討たれた、美甘与一右衛門を讃えた美甘塚、山中鹿之介の供養塔などが建てられている。