築城年代は定かではない。南北朝時代から存在し地頭藤原秀高(合志九郎)が在城したという。
永里氏の城であったが、文安5年(1448年)相良長続によって攻められ永里氏は滅亡したという。後に落合加賀守が城主であったが、大永5年(1526年)相良長唯に追われた相良瑞堅が落合氏を頼って永里城に籠城した。しかし、相良長唯の軍勢によって攻め落とされ、瑞堅は金蔵院で自刃した。
永里城は永里集落の南背後に聳える標高382mの山頂に築かれている。現在は山頂まで遊歩道が整備されている。
主郭は一段小高く切岸に囲まれ、東端が高くなっており、ここに標柱が建っている。中央北に虎口らしき地形があり、そこから北下の帯曲輪に通じる。主郭から北へ伸びた尾根は堀切で遮断しているが、東尾根には堀切はない。曲輪は西へと伸びているようだが、残念ながら日没のため遺構の確認はできていない。
ビバ公園キャンプ場に向かう途中に林道の入口があり、ここに花牟礼城への道標が出ている。(地図)
最寄り駅(直線距離)