築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1569年)に天草鎮種によって築かれたと云われる。 天草氏は筑前国高祖山城を居城とした原田氏の一族とされ、鎮種の時、河内浦城より本渡城を築いて居城を移したという。
豊臣秀吉の九州征伐以後も所領を安堵されたが、南肥後に入部した小西行長の宇土城普請を天草衆は拒否して天正17年(1589年)小西行長と加藤清正によって攻められた。 この戦では本渡城に客将として迎えられていた赤井城主木山弾正が、五百の兵を率いて志岐城へ向かい仏木峠にて加藤清正と戦い、弾正は清正を求めて単騎敵中に乗り込み清正を組み伏せたが、主君あやうしと駆けつけた弾正の家臣に誤って槍にかかり討死したという。
明徳寺の西にある山が城址で、主郭部には石祠があり、尾根を南へ行った所が一の丸で、木山弾正の墓と本渡城主天草伊豆守種之の碑がある。
さらに尾根を南へ行くと千人塚やキリシタン墓地などがあるが、ここが出丸でどうやらここに案内板と城石碑があるらしいのだが、まったく下調べをせずに来てしまったので見逃してしまった。