築城年代は定かではないが志岐氏によって築かれたと云われる。 志岐氏は菊地氏の一族といわれ鎌倉時代に藤原光弘が地頭職を得て志岐氏を名乗ったのに始まるとされる。
天正17年(1589年)天草衆は南肥後に入部した小西行長の宇土城普請を拒んで、小西行長と加藤清正の軍勢に攻められた。 この時、天草氏から木山弾正の援軍を得たが挽回できず降伏した。
現在は公園として整備されている。 城は山塊から北西に延びた尾根に築かれ、南東に続く尾根には弓なり状の堀切で断って標高88mの所に主郭を置く。 主郭には神社があり、背後は土塁でその上に石祠が建つ。 背後の堀切から主郭の西側を巡る帯曲輪に石積が残っていた。
城山の北側を東西に通る市道から公園の駐車場への道がある。