築城年代は定かではない。 建仁元年(1201年)に城小太郎資盛が反乱を起こして鎌倉幕府の佐々木盛綱と戦った鳥坂城に比定する考えもあるようであるが、これは現在の胎内市にある鳥坂城と推測されている。
歴史については詳らかではないが、現在残る遺構は戦国時代のものであり、信濃国境から上杉氏の本城である春日山城に通じる飯山街道を押さえる要害として、上杉氏が維持していたと推測される。上杉氏の家臣桃井左京が在城していたとの伝承が残る。
近年、片桐家文書にある「冨坂」が鳥坂城を示すことがわかり、御館の乱の当初三郎景虎方であった鳥坂城を攻略した景勝が片桐善左衛門に与えたことが判明した。
鳥坂城は関川と片貝川との間に聳える高床山から北東へ延びた尾根の頂部、標高347.5mの鳥坂山山頂に築かれている。現在は公園整備されており、車であればほとんど登ることなく訪れることができるオススメの城跡である。
主郭はI1で西端に分厚い土塁があり三角点と石碑が建てられている。東下の曲輪I2は東西に長い曲輪で北側に土塁がつき、枡形状の虎口1を開く。
南東下には曲輪I3、I4があり、一部に土塁、間の竪堀状の溝が虎口となり、下方のI5に通じる。
主郭から南西に伸びる尾根には多重堀切3と畝状竪堀群3が設けられ厳重に遮断されているが、この間に小さな曲輪Vがあり北側に土塁がつく。
主郭から北東に伸びる尾根には曲輪I6があり、その先の堀切6を超えると曲輪IIがある。北東端はもともと堀切があったと思われるが半分埋もれている。曲輪IIの南側面には畝状竪堀群8、北側にも畝状竪堀群7がある。
主郭の北側面には井戸があるが、その脇に畝状竪堀群5がある。北へ伸びる尾根にも腰曲輪群があり、曲輪I7の脇には土塁と連続竪堀4が確認できる。
遊歩道から南東の斜面にも無数の段曲輪が設けられているが、曲輪IVは土塁囲みになっている。
主郭から南西に離れた位置にある南曲輪と呼ばれる曲輪IIIは曲輪の削平は不十分だが分厚い土塁と幅広の横堀をコの字に配し、南東隅に虎口3を開く。虎口の外は土橋で、横矢が掛かるように西側にオレを設けている。
曲輪IIIから南東に少し離れた位置に曲輪Xがある。東へ伸びた尾根の先端を曲輪とし、西側を土塁と空堀で遮断している。
車の場合は「高床山森林公園」のキャンプ場を目指す。キャンプ場の駐車場から更に鳥坂城方面に未舗装林道が続いており、その奥に広い駐車場がある。
森林公園へは東の国道より北の県道側のほうが道が良い。
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