築城年代は定かではないが柿崎氏によって築かれたと云われ柿崎城の詰城とされる。
柿崎氏は天正2年(1574年)景家が没して晴家が家督を継いでいたが、天正6年(1578年)御館の乱の直前に改易となり、猿毛城は上杉憲藤の家臣篠宮出羽守が守っていた。
御館の乱では景虎方となった柿崎旧臣が守っていたが、景勝方となった柿崎旧臣の上野久兵衛尉が攻め落とし、景勝より城将を命ぜられた。久兵衛は島ノ塁の占拠や町田城を攻め落とすなど活躍し、晴家の子憲家を擁して柿崎家を再興した。
猿毛城は標高478.9mの城山に築かれている。
急峻な半独立丘陵であるためか堀は少なく、南麓の城腰集落から主郭までの間に堀はない。標高400m付近から段々の曲輪群が現れ、それが主郭まで続いており、規模としては大きな城である。
山頂は木が伐採されており、そのなかに一基の塚が残る。これは御館の乱のときに猿毛城攻防で戦った将兵を弔ったものという。
南麓の城腰集落の城山神社の参道入口に猿毛城入口の標柱がある。神社の脇から山に登って行く道があり、道標などはないが比較的しっかりした踏み跡が山頂まで続いている。熊がよく出るという話も聞くので注意してほしい。
駐車場はないが南の道路の路肩に駐車できる。
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