築城年代は定かではない。伝承に依れば五十嵐小文治吉辰によって築かれたとも云われるが定かではない。五十嵐氏代々の居館と云われる。五十嵐氏は垂仁天皇の子の五十足彦命の末裔を称している。
建暦3年・建保元年(1213年)父和田義盛に従って鎌倉の将軍御所に乱入した朝夷名三郎義秀(和田義秀)を防ごうとして討たれた御家人の一人に五十嵐小文治の名があり、それが五十嵐氏の史料での初見といわれる。
永正3年(1506年)守護代長尾能景は、越中国守護畠山氏の要請を受けて越中に侵攻した加賀一向一揆を討伐するために援軍として駆けつけた。しかし、畠山氏の守護代神保氏などの反乱もあって般若野の戦いで能景は討死した。この混乱に乗じて五十嵐氏や石田氏が挙兵したが、能景の子長尾為景によって鎮圧された。
五十嵐館は単郭の居館で土塁と堀が巡らされている。昭和47年に圃場整備の為に消滅する運命であったが、発掘調査によって保存されることとなった。昭和50年に二度目の発掘調査の後、公園として整備された。
館は完全な方形ではなく、東側にある虎口は東へ張り出し門が構えられていた。 鬼門の北東隅は入隅状になり窪んでいる。
北側にある飯田城が五十嵐館の詰城とみられている。
県道281号線沿いの飯田小学校近くに道標が出ている。
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