築城年代は定かではないが、建仁年間(1201年〜1204年)に加治庄の地頭佐々木盛綱の家臣が築城したのが始まりと云われる。
南北朝時代の興国2年・暦応4年(1341年)宗良親王が一時高柳に滞在していたと伝えられ、御殿山、御所平の名称もそれに由来すると云われる。
天文11年(1542年)には長尾俊景の家臣北川大学が城主であったが、天文13年(1544年)栃尾城主であった長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められ、その後は森五郎左衛門、継いで子の高柳監物が城主となった。しかし、監物の時に家臣が武田信玄に通じたとされ知行は没収された。
高柳城は高柳川と大谷川(桝沢川)との間に挟まれ、西へ細長く伸びた山塊の中央にある標高227mの要害山山頂(通称御殿山)に築かれている。非常にコンパクトな縄張りであるが横堀や土塁付帯曲輪を多段に設けるなど、厳重な防御を施し、見応えのある城になっている。
主郭はほぼ方形で北側に土塁があり南に虎口を開く。虎口は外側に虎口受けの小郭があり外枡形となる。
主郭の西から南下にかけてL字の曲輪IIがあり南のみ土塁が付く。現在の登山道は南のIIIから直線的に登ってきており、2ヶ所の開口部があるが、本来の虎口ではなさそうで、西に開口する虎口3が本来の虎口と考えられる。
曲輪IIの南下には曲輪IIIがあり南に虎口3を開く。西下には曲輪IVがあり、現在の登山道が入る虎口4が大手虎口のようである。
大手口は南は横堀7、西は堀切4によって遮断している。南は横堀の外に堀切8を設け、堀切から西下に伸びる竪堀に合流するように畝状竪堀群9がある。一方堀切4も北へ竪堀として伸びるが、これに合流する大規模な連続竪堀4がある。
北尾根は堀切1で遮断し、西側面にはY字の竪堀2と竪堀3が確認できる。
登山口は南の道路から本都寺側に曲がってすぐの民家の脇で、山裾にいくと登山口の標柱が立っている。
上高柳ふれあいセンター付近に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)