築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に能登国守護畠山氏によって築かれたと云われる。
元亀年間(1570年〜1573年)から天正年間(1573年〜1592年)はじめ頃の城主は長沢(長曾)光国と伝えられ、天正5年(1577年)には上杉謙信に属して能登国穴水城の守将となっていたが、翌年討死している。
天正5年(1577年)上杉謙信は有坂備中に湯山城を攻略させたが、このときの城主は湯山左衛門続甚という。謙信はその後河田主膳を城主としたが、天正7年(1579年)長連龍によって攻められ落城した。
佐々成政が越中に入部した後は、湯山城主として斎藤氏が城主であったが、豊臣秀吉に降伏した後は前田利家の所領となり、廃城となったと見られている。
森寺城は氷見地区最大の山城で、越中三大山城(松倉城・増山城・守山城)に次ぐ規模を誇る。森寺城は阿尾川東岸の丘陵頂部に築かれており、阿尾から能登へ抜ける荒山峠越えの街道を見下ろす位置にあり、城内には森寺集落から柴峠に抜ける道が通るなど交通の要衝に築かれている。
森寺集落から尾根伝いに北の城戸集落に抜ける山道が城内を通っている。北端には搦手口が残り、ここの虎口は土塁と堀によって食い違い虎口となっている。また城内にも堀切が食い違っている所があり、道を屈折させて城戸を設けていたような場所が残っている。
本丸は二ノ丸と一帯の丘陵上にあり、南西側に位置する。現在は埋め戻されているが二ノ丸とは空堀によって区画されていたようで、石垣が残っている。二ノ丸は広く、中央に巨大な井戸跡が残っている。この主郭部は公園としてよく整備されている。
本丸の周辺には百間馬場やサイダ屋敷、本町、荒町、カンジャ屋敷などの地名が付いた所がある。南西端にあたる野崎屋敷は南側に二重の堀切を設け、南西側に連続竪堀が残っている。
国道160号線阿尾交差点から県道18号線に入って北西に進んでいくと森寺交差点がある。この辺りに森寺城への道標が出ている。ここから集落内の道に入り谷沿いに進んで行くと終点に駐車場がある。 この駐車場からは500m程尾根道を歩けば本丸に達するので、本丸までは簡単に行くことができる。
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