築城年代は定かではないが由利氏によって築かれたと云われる。
その後仁賀保氏祖である大井伯耆守友挙が修築して居城とした。 大井氏は信濃国大井城主大井朝光の後裔大井友光の子友挙が応仁元年(1467年)仁賀保に下向し、はじめ待居館に住んだが、翌年山根館を修築して居城としたといい、仁賀保氏は友挙の子挙政が名乗った事に始まるとされる。
仁賀保氏は由利十二頭の一人とされ、矢島氏などと争った。 仁賀保氏は友挙・挙政・挙久・挙長・重挙・挙晴・挙誠と七代に渡り山根城を居城とし、豊臣秀吉からも所領安堵を受けたが、慶長7年(1601年)関ヶ原合戦の恩賞により由利一円が最上氏の所領となったため、仁賀保氏は常陸国武田に五千石で移った。
元和9年(1623年)仁賀保挙誠は由利に戻り塩越城を居城として一万石を領した。
城は院内の東にある標高203mに築かれている。
現在は主郭部がきれいに整備されており、建物の礎石が整然と列び、庭石なども残っている。城は主郭から西の麓に向かって累々と屋敷跡のような広い削平地が空堀に区画されて残っている。この辺りは植林された木々と下草によって遮られているが、軽く見て回るだけでも規模の大きさが良くわかる。