貞治4年・正平20年(1365年)池田豊後守茂政によって築かれたと云われる。
築城以後池田氏が代々この地を領し、慶長年間に最上氏の所領となって楯岡氏の所領となった後もこの地にいた。しかし、最上氏改易の後、元和9年(1623年)仁賀保挙誠が常陸国武田より一万石で由利に復帰すると塩越城に入り、池田氏は丸山館へ移ったという。
寛永元年(1624年)挙誠が没すると遺領は三人の子に分与され、長男良俊が七千石で家督を継ぎ、次男誠政が二千石、三男誠次に千石となった。寛政8年(1631年)仁賀保良俊が嫡子なく没して改易となると廃城となり、以後六郷藩の代官所がおかれ明治まで続いた。 尚、旗本となった誠政と誠次の所領管理は共同の仁賀保陣屋で行われた。
現在は城の遺構はほぼ壊滅しているが、本丸と見られる楕円形の高台が畑として残り周囲に土塁跡が残る。
国道7号線から象潟の市街地に入り、熊野神社南側の道路を西へ進むと南側に小浜唐ヶ崎会館がある。ここに案内板があり、この南の高台にある畑が本丸跡とされる。
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