永正3年(1504年)豊島玄蕃頭によって築かれたと云われる。 豊島氏は畠山重忠の末裔と云われ、永正3年(1504年)飛騨国より一門十二家二百人を率いて豊島荘に入ったという。
玄蕃頭の子次郎重村は仁賀保氏から妻を迎えていた。元亀元年(1570年)玄蕃頭は周辺の国人と同調して湊城主安東茂季に謀反を起こした。湊騒動とも呼ばれる内乱であったが檜山安東愛季の援軍もあって玄蕃は敗れ、山根館の仁賀保氏を頼って落ちたが、後に許されて豊島館に復帰したという。
天正16年(1588年)湊城主安東高季が脇本城主秋田実季に謀反した湊合戦では、湊安東氏に従って秋田氏に対したが敗れ、その後は由利十二頭のひとり羽川館赤津尾九郎の弟新内が豊島館に入って豊島殿と呼ばれたという。
一説に湊安東氏を継いだ安東茂季は湊城ではなく、この豊島館にいたとされる。
館は北の山塊から岩見川に向かって南西に伸びた尾根頂部に築かれている。
「前御殿」と呼ばれる曲輪が最南端の尾根の部分にあり、「奥御殿」と呼ばれる主郭部分が山頂部にある。
県指定史跡として前御殿、奥御殿の一部が整備されているが、北側部分は野放しで薮に埋もれている。奥御殿の北奥には堀切があり、西側に畝状竪堀群が残るとされるが、日暮間近であったこともあり確認できなかった。
県道61号線が岩見川に架かる豊成橋の北詰に豊島館への道標がある。ここから岩見川の土手沿いの道をしばらく東へ進んで行くと土手沿いに道標があり、その先で線路を潜って線路沿いの道を行った終点に登山口があり案内板が建っている。
最後の線路沿いの道が狭いので、途中の空きスペースに車を置くしかない。
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