文安4年(1447年)安東義仁によって築かれたのが始まりとされる。
安東義仁は安東氏一族で、南の由利衆に備えるため、この地に配され城を築いたという。
永禄10年(1567年)豊巻(安東)備中守季林のとき豊島館主豊島玄蕃頭によって急襲され落城したが、その後安東氏が豊島館を攻め、白華城は再び安東氏の支城となった。
慶長7年(1602年)安東実李が常陸国宍戸へ転封となると、豊巻季林の孫季久はこ秋田に入部した佐竹氏に仕えた。
白華城は豊巻小学校の西背後に聳える比高50mほどの丘陵に築かれており、現在は公園として整備されている。
白華城は丘陵が南北に長く伸びている部分に築かれている。最高所は現地案内板で「家中屋敷跡」と書かれているIである。南北に伸びている曲輪群の高さはほぼ同じで、縄張などを考慮すると、北端のIIが主郭の可能性もある。
曲輪IとIIIの間が虎口でそのまま西の犬走りに至り、南に進むと曲輪III、北へ降りると曲輪Vのほうに進むことができる。北の曲輪II、IVは東側に土塁を設けているが、曲輪Iには土塁はなく、南端の曲輪IIIは南から東にかけて土塁を備えている。
各尾根は堀切で遮断しており、特に南端は3重堀切1、北端と北端東部に二重堀切5、6、東尾根も多重堀切3となる。南尾根の三重堀切1の東側面には連続竪堀2、北の二重堀切6の脇にも付随する竪堀が一条確認できる。
登山道はいくつかあるようだが、一番わかりやすいのは南東側から登るルートで、前郷公民館の北側に「白華城跡入口」の標柱がある。ここから奥に進み左カーブとなる地点の右側、民家と民家の間の細い道を奥に入るルートが登山道となっている。
最寄り駅(直線距離)