築城年代は定かではない。文明10年(1478年)大宝寺武藤氏が砂越城の砂越氏に対抗するために築いた東禅寺城がその始まりとも云われる。
東禅寺城には武藤氏の家臣東禅寺氏が居たが、天正11年(1583年)最上義光に通じて尾浦城の武藤義氏を攻めてこれを自害に追い込んだ。義氏のあとは義興が家督を継いでいたが、義興もまた天正15年(1587年)に東禅寺義長によって尾浦城を攻められ自刃、養子の義勝は実父の本庄繁長のもとへ逃れたため武藤氏は滅亡した。
天正16年(1588年)本庄繁長が庄内へ侵攻してくると東禅寺義長は十五里ヶ原でこれと戦ったが討死、庄内は上杉氏の手に落ちた。
関ヶ原合戦の後は山形の最上義光の所領となり、志村伊豆守光安が三万石を与えられ東禅寺城主となり、亀ヶ崎城と改められた。
最上氏が改易となると酒井忠勝が十三万八千石で庄内に入部し、松平甚三郎久恒を亀ヶ城城代とした。その後も酒井氏の支城として維持され、江戸時代を通じて城代が派遣された。
亀ヶ崎城は現在の酒田東高校を中心とする一帯で、高校の敷地が本丸と二の丸、その周囲に三の丸が配されていた。現在高校の校門脇に案内板が設置されている。
本丸は高校の南東側のグラウンド、二の丸が北西側の敷地で、亀城八幡神社との間に北東から南西に伸びる土塁が残っている。また北東側にも土塁があり北側の工場と高校の敷地を区画するように付いているが、これについては絵図との違いなどから後世の改変の可能性も指摘されている。
三の丸は本丸、二の丸を取り囲むようになっており、南にある亀ヶ崎小学校の校門を入った所に三の丸跡の碑と鵜渡川原村役場跡の案内板が設置されている。
搦手門(移築 城門)
亀ヶ崎城の案内板は酒田東高校の校門脇、搦手門は酒田市吉田伊勢塚にある円通寺(地図)に移築現存している。車は亀城八幡宮横の横道町自治会館の駐車場が利用できる。
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