詳細不明。城主は皆内(かいち)氏と伝えられる。
『西備名区』では別名を堺山城といい、城主は皆内出雲守兼景、同出雲守兼綱で大内家の郡代とする。天文のはじめに大内山城から青ケ城を築いて移り、大内山城は嫡子式部少輔に譲ったとする。
青ケ城は芦田川西岸にある標高235mの山に築かれている。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』ではなぜか一覧に載り地図にも記載されているが、×マークが記され遺構が確認できなかったことになっている。
青ケ城は江戸時代から近年まで人が居住していたという谷間を囲むように3つのピークに主な曲輪群を配した巨大な山城である。大内家の郡代という地位がどのようなものであったかは定かではないが、一国人領主の城ではなく、広域権力下で維持された拠点城郭の一つであろう。
主郭部は南東の曲輪群IでI1からI3を中心に城内で最も丁寧に削平された曲輪となっている。
曲輪群IIは最高所のII1を中心に小さく段が築かれているが削平は甘く緩やかに傾斜する。西に伸びる尾根にII2があり、北側に土塁状の高まりと溝があるが、これは耕作にともなう造成のようである。
西峰のピークにあるのが曲輪群IIIで最高所を中心に小さな段が築かれている。それなりに削平された段と不明瞭な段が混在する。
全体的にみると堀はこれらの曲輪群の外側に設けられており、曲輪間を区画するような堀切は存在していない。特に厳重に遮断している尾根は曲輪群Iから東へ伸びた尾根で三重堀切2と竪堀3、4を設けて固めてある。また曲輪群IIIから北西に伸びた尾根も二重堀切13と畝状竪堀群14で遮断してある。
もともと居住区に上がる山道は南西の谷の脇にあったようだが、現状では歩くのが難しい。
竪堀1の東側ににある鉄塔へ登る巡視路があるのでこれを利用するのが良い。この巡視路は南麓にある栄久庵跡の東側にある墓地から谷筋を登って行くことになる。
東麓の道が中世山陽道で郷分八幡神社の近くに宮入道光音の墓がある。
最寄り駅(直線距離)