『芸藩通志』には「小積山、湯舟山、葛掛山、城峠、丸山 並に本地村にあり、誰の所居なりしや、所伝なり、城峠、一に岩崎山と称す、以下城名のみ挙げるは、皆主名を失としるべし、」とあり、葛掛山に城があったことは伝えられているが城主は不明である。
『本地村史』には近くにある専教寺の由緒に「永正15年当村葛掛城主中村式部少輔云々」とあるという。
葛掛山城は海見山から北東へ伸びた山塊の標高550m付近と530m付近の2ケ所に城郭遺構がある。
南城(II)の方が高い位置にあるが、規模は北城(I)のほうが大きく、併存していたとすれば主郭は北城であったと考えられる。
北城(I)は南端が最高所で北に向かって緩やかに下る位置にあり、南北を堀切で遮断し、内部は小さな段差で細かく段分けされている。東西両端が通路として残されている。南端は小さな櫓台状の土壇が中央にあり、東西両側が南に張り出すようになっている。
堀切は特徴があり、北の堀切1は竪堀が伸びず、東側は曲輪の切岸に沿って内側に巻き込み側面に切岸を設けている。
南の堀切2は東尾根を幅広く削り込んで遮断、堀切3は竪堀が伸びるが、城内側は曲輪の切岸に沿って巻き込む。ただ西側面には竪土塁のようなものが確認できる。
南城(II)は細長くなった尾根上にあり、曲輪面も最大幅5mほどしかなく狭い。南端には土塁状の高まりが残るが用途は不明。東側面に一段下がって通路がある。
北尾根は小さいが二重堀切4で遮断、南尾根はやや幅広い堀切5で遮断する。 南の堀切5は北城の堀切と同様に内側に巻き込むような作りになっており、同一勢力による築城の可能性が高い。
鉄塔があるので尾根上に上がると道があり、南の海見山方面からの山道は特に整備されている。北側は不明で、北東麓の八幡神社から取り付いた。