永正年間(1504年〜1521年)に笠間幸信・幸親兄弟の居城であったという。 「芸藩通志」によれば、栗栖越後守幸信は弟兵部幸親、宍戸大炊らと吉川氏に属し、笠天城を築いて居城とし、後に笠間氏を称したという。
また、槙尾城も笠間氏の居城と伝えられる。
笠天山城は標高667.0mの城山に築かれている。 南北に長く伸びた山頂尾根に築かれた城で、等高線地図で中央やや北に入った谷を境に、大きく北曲輪群と南曲輪群に分けることができる。
南曲輪群は南端の三角点のある山頂から北西に伸びた尾根に築かれた曲輪群で、1m程の段差で曲輪が連なっている。北曲輪群との境にある谷間に面した辺りに、南北に堀切があり、北と南とを区画している。南側には堀切に面して通路が付いている。この堀切の南側は道があったのかやや竪堀状になって西側に通じている。
北曲輪群は一段下がった削平地で南北二つの曲輪をつなげている。北側は東が高く、西に向かって階段状に削平地があり、北側に帯曲輪が付く。ここから降った尾根先に一条の堀切がある。南側の曲輪は中央が一段高く、石積が西から南へかけて巡っている。北と南に虎口らしき部分がある。
県道313号線を北上していくと「城山公園」の道標が建っている。そこを西へ曲がって進んで行くと最初の交差点の所に笠間城の案内板が建っている。(地図)
城山へ登る整備された道はないようです。城山の北西を通る道(豊平どんぐり村から野々志山と城山との間を抜け、県道313号線に通じる。)に城山トンネルがあり、そこから山に入ることができる。法面工事された山の上に登ると谷間が見えるので、その谷間をまっすぐ登ると堀切に通じる。(地図)