築城年代は定かではない。
大永3年(1523年)周防大内氏の東西条の拠点城郭であった鏡山城が出雲の尼子経久によって攻略された。これに対して大内氏は陶興房を派遣して東西条の奪還を目指し、大永5年(1525年)頃には尼子方を駆逐した。
これを機に大内氏の東西条の拠点城郭は鏡山城から杣城(曽場が城)に移され、伊香賀壱岐守を代官として置いた。その後、東西条郡代となった弘中隆兼が在城した。
天文4年(1535年)平賀氏が大内方と尼子方に分裂して内訌が勃発すると、大内氏は白山城に籠もった平賀弘保を助けて、尼子方の頭崎城を攻めた。しかし頭崎城はなかなか攻略することができず、天文8年(1539年)東西条代官は杉隆宣に替えられた。
天文12年(1543年)杉隆宣が出雲で討死すると弘中隆兼が派遣されたが、このとき槌山城を本拠とし曽場が城は廃城となった。
曽場が城は八本松駅の南西に聳える標高606.7mの曽場ケ城山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
城域は山頂から東へ伸びた尾根に長く伸びており、その規模は東西約700mになる。
曽場ケ城山山頂部は「一つ城」と呼ばれており、曽場が城のなかでは最高所に位置するが、全体的にみると出城となる。三角点のある最高所から北西の大山峠方面に堀切5、南西の尾根に二重堀切4を設けているが、東側には堀切はなく、不明瞭な平段が設けられ一部石積を伴う。
主郭部は中央の曲輪群I、IIのブロックで、西端最高所I1が主郭となる。土塁はないが北や西側面に石積が確認できる。西背後の尾根には巨石がゴロゴロしているなか八重くらいの連続堀切を設けて遮断している。
曲輪群IIはII1を最高所に東に段々と平段を造成する。曲輪I2との間には浅い堀切2がある。南側面には曲輪群Iと繫がる帯曲輪がある。
曲輪群IIIは曲輪III1を最高所として東へ伸びた尾根上にIII1~III4を連ね、南の山腹に段曲輪を造成している。山腹のIII5の周辺には石積が点在している。西背後は浅い竪溝が北に二条、南に一条あり堀切1だった可能性があるが判然としない。東端は堀はなく段々と自然地形になっていく。
登口は七ツ池方面からと八本松駅方面からある。
七ツ池は七ツ池公園に駐車可能で、林道入口に案内板が設置されており、そこから道標があるのでわかりやすい。
八本松駅からは国道2号線パイパスの道路橋を渡った先を左へ登って行く。
最寄り駅(直線距離)