『芸藩通志』には「杉城、瀬賀山 並に吉原村にあり、瀬賀、一に瀬河に作る、供に吉原三郎兵衛元種所拠といふ、按に、今下津村に、吉原氏が裔あり、其家譜によるに、元種は、吉原豊後元親が嫡子にして、其先は、齋院次官藤原親能より、出、天文年間、元親、杉城を築き、其後弘治年中、元種、瀬賀山に移りしが、後毛利に属し、遂に長門に移ると見たり、」とある。
吉原氏は齋院次官藤原親能の末裔で駿河国吉原村を本貫地とする。
天文年間(1532年~1555年)吉原豊後守元親のときに杉城を築き、弘治年間(1555年~1558年)吉原元種のときに瀬賀城を築いて居城を移したと伝えられている。
天正10年(1582年)元種は神村に移り神村元種と改めた。関ヶ原合戦の後は毛利氏にしたがって長門に移り、徳山藩が創設されたときには元種が附家老に任ぜられ、家督を元忠に譲って、附家老として徳山藩に移った。
瀬賀城は比高90mほどの山で南北に長く伸びた尾根上に築かれており、現在は登山道が整備されている。
最高所の主郭Iを中心に北下に曲輪II、南下に腰曲輪IIIがあり城の中核となる。削平は丁寧で側面の一部には人頭大の石が張り付いているところもあり、腰曲輪IIIには石が散らばっており、石積をともなっていた可能性がある。
曲輪IIの北端や曲輪IIIでは折れが確認できるが、横矢掛けのような意図は感じられない。
現状の登山道は北尾根から堀切3を超えて曲輪IIに入ってきているがこれは後世のルートと思われる。現状では西からの山道が井戸を経て虎口2に入るルートA、東からの山道は虎口4から虎口3に入るルートBが城道の可能性がある。
城の南北両端は堀切1と堀切3で遮断し、西側面はルートAを挟んで南北両側に竪堀状地形が多く確認できる。明瞭ではないが畝状竪堀群2の北端部は上下二段で、上は岩盤を削り残しているがかなり風化している。
東側面も北側を中心に竪堀群が確認でき、作業林道の下方にも竪堀形状が確認できる。
興学寺を目指していけば良い。興学寺前の峠の向かい側に瀬賀城への道標が出ており、それにしたがって行けば城にたどり着く。
興学寺前の駐車場に駐めさせていただいた。