築城年代は定かではないが国重氏によって築かれたと云われる。 国重氏は武田氏の一族で、武田信賢の二男信恒を祖とし、国重の子信正の時代に国重氏を称したことに始まるという。
永正11年から12年(1514年〜1515年)頃に国重信正は銀山城主武田元繁に叛いて大内・毛利方となり、武田氏滅亡後に毛利元就が広島湾岸の諸城を攻めた際に毛利氏に従って活躍した。その後も国重氏は毛利氏に従い、関ヶ原合戦後に防長二ヶ国に減封となって萩へ移るとこれに従っている。
国重城は伴東小学校の北側辺りにあり、比高20m程の小山に築かれていたという。 現在は宅地となって遺構はない。
「国重城跡発掘調査報告書」によれば、頂部に南北に長い曲輪があり南半分は三方に一段下がった帯曲輪があり、南尾根は堀切で遮断していた。西側のみ二段の帯曲輪で下側の帯曲輪から西斜面に四条の竪堀が設けられていた。