築城年代は定かではないが元弘年間(1331年〜1334年)以前に安藤元理によって築城された。
元理は北条氏からこの地を宛がわれたが、元弘の乱(1333年)で敗れ六波羅北条仲時とともに自刃した三十二人の一人という。
戦国時代には
松山城の三村氏の支城となっていたが、毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、三村氏は毛利氏と敵対する事となった。
毛利氏は三村氏を討伐するため、小早川隆景を主将として三村政親が籠る国吉城に攻め寄せ、善戦するも落城しこれを足掛かりに
松山城に攻め寄せた毛利軍は三村氏を滅ぼした。
その後は毛利氏家臣の口羽春吉が入城する。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に減封となると糟屋武則が入封する。
慶長16年(1611年)幕府直轄領となり廃城となる。