詳細不明。紫城主平川氏の支城の一つ。
城主は平川長門守経貞、平川弾正忠正親などが伝えられる。
平川長門守経貞は近くの長建寺に懸仏を奉納したときの願主として登場し、永正18年(1521年)6月吉日と記されている。
平川弾正忠正親は隣接する備後国高屋原但馬守正国の次男で猶子として迎えて勝負城主となったとする。
勝負城は成羽川に面した標高480mほどの岩山の上に築かれている。以前は見学路が整備されていたようであるが、現在はそこに至るまでの作業林道もあまり使われておらず荒れている。
下から見上げると岩盤が露出した険しい山が見えるが、そこに勝負城が築かれている。
険しい崖地形の山の上にあり、加工は少なく、南北に伸びた細尾根を削平して小規模な段を作り出している。西は崖地形、東はやや緩くなっており、武者走り状の細い削平地を南北に連ねている。
東へ伸びた尾根Aは緩斜面地形であるが、主郭に近い部分以外は未加工で城域とはならない。
南に堀切があれば堅固になるが、現状竪堀状地形が確認できる程度で堀切は見当たらない。
布賀の北迫に続く林道を進んで行くと最後の民家のところから林道に変わる。このあたりに車を駐めて1kmくらい作業林道を歩いていくと「菖蒲城」の看板があり、そこが登口。